モリケイの誰かのための話

24歳の等身大エッセイです。

おばあちゃん(1号)の話

 

 

 

父方のおばあちゃんは今年の2月に亡くなりました。

自宅の階段から転倒したことによる外傷性くも膜下出血などです。

 

 3〜4年前の話。

当時私は看護学生でした。

誰もが一度は耳にしたことがあるでしょう。“認知症”。

老年看護の勉強もしていたためなんとなくは理解していました。

 

私のおばあちゃんは元モデルで

背が高く、70歳を越えでも手足の赤いマニキュアは欠かせませんでした。

洋服もとってもおしゃれで、爪の色に合わせて

毎日指輪や腕時計などのアクセサリーを選んでから

買い物に行くのが日課でした。

 

 

私がばあちゃんの認知機能の低下を感じたのは

マニキュアをしなくなったことからでした。

白髪一本生やさなかったばあちゃんの髪の毛は

叙々に白くなります。

「髪、染めないの?」と聞くと

「めんどくさいからいいの。」と言います。

ばあちゃんが美から離れていくのは驚きでした。

 

同じことを何度も聞いたり、

一人ではご飯も食べず、

余したご飯は茶碗ごと床に置いて腐らせてしまっていました。

 

父はおばあちゃんが老ていくことをなかなか受け止められない様子でした。

何度も同じことを聞かれるとイライラしていました。

なので仲介役として私が月に何回か様子を見に行っていました。

 

「ばあちゃん認知症の検査に行こう。」

 

ばあちゃんの反応はノー。

「そんなの行くならぽっくり死にたいよ。」

ばあちゃんらしかったです。

「病気もないし病院は死んでも行きたくない。」

これがばあちゃんの想いでした。

私も心配がありながらも尊厳を尊重したいと思い、

「わかったよ。」と言いました。

 

その数ヶ月後、家の階段から転落して頭を打ってしまったのです。

すぐにICU(集中治療室)行きでした。

夜中に救急病院に駆けつけました。

意識は朦朧としていました。

「ばあちゃん、ばあちゃん。」と声をかけても

反応はありません。

病室について「ばあちゃん、痛かったっしょ…。」と声をかけると

「どうってことない。」とか細い声で言ったのが最期の言葉でした。

 

その3年後、肺炎を併発し亡くなりました。

お見舞いに行っても目が合えばいい方。

喋れないばあちゃんを見てられなかったです。

ひとりでお見舞いに行った時には何度も泣いてしまいました。

 

亡くなったと父から電話が来た時に

焦りもあり次の日緊急で帰省しました。

葬儀に出た時、思ったよりもショックじゃなかったのです。

3年間喋ることができなかったため

なんとなく、今までと変わらない感じがして

そんな気持ちの自分が嫌でした。

 

 

最期は赤い口紅を塗りました。