モリケイの誰かのための話

24歳の等身大エッセイです。

デブになった話

 

 

 

久々に院内のジム室でエアロバイクを30分ほどやった。

汗はだらだら。いつからこんなに代謝が良くなったんだっけ。

行くまでは“患者”さんがいると私は“看護師”になってしまうから…と

重たい腰を上げて見学だけ行ってみると

患者さんはそんなに多くなく患者さん同士の関わりも

ほとんどなかったので参加してみました。

 

そしてクエチアピン(抗不安薬)を飲んでいた頃、

副作用で過食がひどく2ヶ月ほどで8kgほど太り

お腹にも肉が…

体脂肪率驚きの「「「「33.7%」」」」

デブですね。3割脂肪とは…

入院中はエアロバイクやって退院後はエアロバイクを購入します。

 

 

 

 

 

おばあちゃん(1号)の話

 

 

 

父方のおばあちゃんは今年の2月に亡くなりました。

自宅の階段から転倒したことによる外傷性くも膜下出血などです。

 

 3〜4年前の話。

当時私は看護学生でした。

誰もが一度は耳にしたことがあるでしょう。“認知症”。

老年看護の勉強もしていたためなんとなくは理解していました。

 

私のおばあちゃんは元モデルで

背が高く、70歳を越えでも手足の赤いマニキュアは欠かせませんでした。

洋服もとってもおしゃれで、爪の色に合わせて

毎日指輪や腕時計などのアクセサリーを選んでから

買い物に行くのが日課でした。

 

 

私がばあちゃんの認知機能の低下を感じたのは

マニキュアをしなくなったことからでした。

白髪一本生やさなかったばあちゃんの髪の毛は

叙々に白くなります。

「髪、染めないの?」と聞くと

「めんどくさいからいいの。」と言います。

ばあちゃんが美から離れていくのは驚きでした。

 

同じことを何度も聞いたり、

一人ではご飯も食べず、

余したご飯は茶碗ごと床に置いて腐らせてしまっていました。

 

父はおばあちゃんが老ていくことをなかなか受け止められない様子でした。

何度も同じことを聞かれるとイライラしていました。

なので仲介役として私が月に何回か様子を見に行っていました。

 

「ばあちゃん認知症の検査に行こう。」

 

ばあちゃんの反応はノー。

「そんなの行くならぽっくり死にたいよ。」

ばあちゃんらしかったです。

「病気もないし病院は死んでも行きたくない。」

これがばあちゃんの想いでした。

私も心配がありながらも尊厳を尊重したいと思い、

「わかったよ。」と言いました。

 

その数ヶ月後、家の階段から転落して頭を打ってしまったのです。

すぐにICU(集中治療室)行きでした。

夜中に救急病院に駆けつけました。

意識は朦朧としていました。

「ばあちゃん、ばあちゃん。」と声をかけても

反応はありません。

病室について「ばあちゃん、痛かったっしょ…。」と声をかけると

「どうってことない。」とか細い声で言ったのが最期の言葉でした。

 

その3年後、肺炎を併発し亡くなりました。

お見舞いに行っても目が合えばいい方。

喋れないばあちゃんを見てられなかったです。

ひとりでお見舞いに行った時には何度も泣いてしまいました。

 

亡くなったと父から電話が来た時に

焦りもあり次の日緊急で帰省しました。

葬儀に出た時、思ったよりもショックじゃなかったのです。

3年間喋ることができなかったため

なんとなく、今までと変わらない感じがして

そんな気持ちの自分が嫌でした。

 

 

最期は赤い口紅を塗りました。

 

 

おばあちゃん(2号)の話

 

 

 

母方のおばあちゃんの話をします。

母方のおばあちゃんは10年前に亡くなりました。

私の誕生日の数日前でした。

 

癌発覚から3週間ほどで亡くなりました。

病名発覚の1ヶ月前には大好きな温泉旅行にも行っていました。

 

 「検査入院をする。」と聞いていた私は

当たり前に帰ってくると思っていたのです。

今思えば入院準備をしている時のばあちゃんの顔は

少し浮かない様子だったかもしれません。

 

入院してから、すごいスピードで弱っていくばあちゃん。

ベッドからも起き上がれなくなりました。

それでもお見舞いに行くたびに

「怪我するんでないよ〜。」と毎回声をかけてくれました。

 

“ばあちゃんが死んじゃう”という事実を聞いた日は

家族みんなで泣いて次の日の学校では朝から

泣きじゃくっていました。

 

気づけば膀胱留置カテーテルが挿入され、

全身が浮腫み、黄疸が出ていました。

 

その頃私は美容師になるか看護師になるか迷っていました。

看護師も考えてると両親に伝えると

両親は喜んでいましたが、

実際に自分がやりたいのはどっちだろうと悩みました。

 

そして7月某日。

朝5じ頃にじいちゃんから電話が入りました。

「ばあちゃんが重篤になった。」と。

 

急いで家族全員で病院に向かいます。

初めて人の死を目前にするので

心臓はバクバクでした。

そしていつもだったら走ったりしない母が

ばあちゃんのもとへ一目散に走るのです。

とても早くて追いつけなくなりそうになったのを覚えています。

病室に着くと酸素マスクをしているばあちゃん。

その姿を見て「死んじゃうんだ。」と痛感しました。

だんだん声が出なくなるばあちゃん。

最期の力を振り絞るように“背中が痛い”ということを

伝えてくれました。

母は泣きながらばあちゃんの背中をさすり

「親不孝な娘でごめんね、お母さん。」と何度も言っていました。

 

じいちゃんも時々ハンカチで目を拭きながら

ずっとばあちゃんの元にいました。

 

心電図が何度かフラットになりアラームが鳴ります。

血圧はガクンと30台まで落ちます。

ばあちゃんの目はうつろでした。

みんなが声をかけます。

耳は最期まで聞こえるのできっと声は届いたと思います。

 

その時私はばあちゃんに

「絶対看護師になるから!!」と叫びました。

 

そして静かに目を閉じたのです。

小さい頃から面倒を見てくれた大好きなばあちゃんでした。

 

 

 

 

 

うつ病なのに精神看護師になりたい理由

 

 

 

 

私は看護師です。

中学2年生の時におばあちゃんを亡くし、

死ぬ寸前に勢いで「看護師になるから!!」と

宣言したことをきっかけに看護師になりました。

 

片道車で1時間かけ通っていた看護大学を卒業し

3年前、晴れて看護師となりました。

大学4年生の時からずっと“児童精神”に携わりたいと思っています。

(今はなぜか救急科に配属されています。)

 

学生の頃から急性期がど〜〜〜〜〜も苦手でした。

展開が早く、手術すれば死ぬ可能性も無いとは言い切れない、

そんな急性期に苦手意識がありました。

 

元々(中学生の時)はがん看護に興味がありました。

と、言っても看護の世界なんぞ全く知らず

おばあちゃんが胆嚢がんで亡くなったからです。

その上、少し歳の離れた弟妹がいるからか

小さい子たちの面倒を見るのが好きで

小児看護にも興味がありました。

 

職場のインターンシップに行ってみると

それはそれは想像とは全然違う看護の世界。

がんの治療で髪が抜けた子が笑顔で廊下を走ります。

私の心はなんとも複雑でした。

 

大学生の時に1つ下の友達を大腸がんで亡くしました。

ボランティアを一緒にやっていてグループが一緒になれば

まあ話すかな?程度でしたが

お葬式で嗚咽が出るほど泣いたのです。

 

自分よりも若い子がこの世から居なくなってしまった現実が

当時19歳の時の私には受け入れられませんでした。

どんな思いで学校生活を送っていたのか。

どんな思いで闘病していたのか。

考えただけで胸が締め付けられました。

 

その時に私には小児看護とがん看護はできないと思いました。

 

そして、ほかに何が興味があるかなと思いました。

自分の幼い時の記憶から

精神科はどうだろうと思いましたが自信がなかったです。

ですが、精神科実習に行った時

受け持ちだった20代の患者さんと接する中で、

笑顔を見れただけで非常に嬉しかったのです。

その時に自分のように悩んで殻に閉じこもっている人を

入院を通して自分が支えたいと思いました。

また、精神看護実習を通して

疾患を患っていても、病気の部分と

人間らしい部分があることを学びました。

(なんだかレポートみたい。)

 

退院して社会復帰をして

いつかは念願の精神看護に携われるよう

自分を大切にしていきます。

 

 

 

 

心理士さんの話1

 
 
 
 
休職する前、メンタルクリニックとは別に
職場の“健康管理室”というところに通っていた。
臨床心理士さんが看護師のメンタルケアをするところだ。
 
初めて行った時はとても緊張した。
“またどうせわかってもらえない。”
自然とそんな風にも思っていた。
 
でも今まで出会った人の中で初めて、
私自身が言葉にできないことを見透かすように代弁してくれた。
当時の病棟師長はとてもポジティブですごく話を聞いてくれる
男性の師長さんだった。
 
でもなかなか私のギブアップが言葉にできず
伝わりにくいところもあった。
自分的にはギブアップでも、みんなの前では
振る舞うことができるため
「そんな風にみえなかった。」と言われてしまう。
そうじゃないんだよ〜〜〜〜〜〜!!!(笑)
 
 
学生の時にも「ギブアップがわからない。」と
当時の精神看護のインストラクターに泣いて訴えたことがある。
「私は自分に厳しい。どこまでも無理をしてしまう。」と。
 
 
心理士さんの話に戻るが、
その私の状態をきれいに言葉にしてくれた。
「モリケイさんは今、休まなきゃだめよ。
脳が疲れてしまっているの。自分ではできると思うかもしれないけど、
みんなの前ではできちゃうんだよね。
だからギリギリになるまでしっかり働けてたと思います。
今は休んでいいよ。」
まさにこれだった。
みんなの前ではないエネルギーを絞り出して取り繕う。
だからみんなには疲れを見せることができない。
何もかも自分一人で頑張ってしまう。
 
それが今まで言葉にできなかった。
言葉にすると自分が弱いみたいで。
「モリケイは強いよね!」とか
「長女なんだからしっかりしなさい。」とか
「ほんと頼りになる!」とか
「お母さんみたい!」とか。
人生で死ぬほど言われてきた言葉たち。
この言葉たちが私を強くしたのだけれど、
その反面この言葉で私は居場所をなくした。
心をどこに置いていいかわからなかった。
 
強くて頼り甲斐があって母みたいな私が誇りだった。
だから弱くなるとだめな気がして。
だから毎回溜まり溜まって泣くようになった。
 
今回は泣くだけじゃなくて脳を休めることをしなくてはならなくなった。
積み重ねで脳を相当疲れさせてしまった。
休養を取る難しさと必要性をひしひしと感じる。
 
 
 
 
 
 

 

大好きだったパパ

 

 

 

私の父は3年前にパニック障害と診断された。

まあ、今になればあれもこれも発作のひとつだったのかなと思う節はある。

 

幼い頃、母が出稼ぎに行き父が家にいた。

私は保育園入園前であり父が面倒を見てくれていた。

でも、怒られると決まって大きな声で怒鳴られた。

押し入れに閉じ込められたこともある。

 

今思えばなぜ父はあのとき仕事をしていなかったのだろうと疑問が残る。

 

小さい頃はパパ信者だった。

父の言うことは絶対。父から学ぶことは全て正しい。

もちろん私も気づけばヒステリーっぽくなっていた。

(気づいたのは高校生の時だった。)

 

父に怒鳴られないように生活をする。

父の気が済むまで怒鳴られる。常に受け身。

癇癪を起こすことも度々。

怒鳴る男の人は大っ嫌いになった。

 

父はよく仕事を休んでいた。

いわゆる“ずる休み”。

どんな理由かはその時はわからなかったが仕事に対して

拒否反応が出ていたんだと思う。

段々と嘔吐するようになった。

 

仕事をしない父に対して、収入が減り母はイライラするようになる。

昔からお金がないと家はピリピリする。

 

3年前の冬、父方のおばあちゃんが自宅の階段で転落した。

一命は取り留めたものの、半身不随、構音障害で寝たきりに。

何より全く話せなくなってしまったのがショックだった。

叔父はとても凹んでいた。父は最初、凹むそぶりを見せないようにしていたが

だんだん周りがわかるように凹んだ様子を見せていた。

 

そして3年前の春。

私は関東に就職し、母方のおじいちゃんの家で送別会を開いてくれた。

凹む父を見たくない、片付けができないと怒鳴られている母を見たくない、

処女と馬鹿にしてくる男友達のもとにいたくない、こんな気持ちわかってもらえない。

そう思い決めた関東行き。

 

父の酒は進む。

嫌な感じがした。

父は酔うと暴言を吐く。しかも覚えていない。

常習犯すぎる。

母の兄(父の義理兄)と酒組み合わす。

話す声が大きくなる。

嫌な感じがする。

 

母の元に行き「止めて。絶対飲み過ぎ。」と言うが

母は「好きにさせときな。」と言う。

次の瞬間、怒鳴り声が響く。

(あ、ほらね。最悪。)

義理兄と父の酔っぱらい喧嘩。

最悪だった。

 

大事なじいちゃんの目の前で。

本当に最悪だった。

従兄弟の結婚式も控えていたのに。

二度と酒を飲んで欲しくないと思った。

「やめて!」

そんな声も響かない。

父の頭を鷲掴みし「うるさい!やめて!」と言う。

あんなに力で抵抗できない父は初めて見た。

そのとき「お前は俺の娘じゃねえ。」そう言われた。

酔っ払っていたとしてもショックだ。

 

そのあと父は嘔吐した。母方のじいちゃんの家なのに。

そのあと深く眠りについて置いて帰った。

何もかも最悪だった。

しばらく口は聞かず、そのまま関東へ引っ越した。

 

あとからあの時はパニックの発作だったと聞いた。

今でもどこからどこまでが?と思う。

割と根に持っている。

 

父は私が関東へ就職することを直接伝えてくれなかったと根に持っているらしい。

今でも「あの時俺には言わなかった。」と言う。

耳にタコができる。

 

その後も関東から帰省すると祖母の状態が変わらないことや

仕事の対人ストレスで私に怒ってくるようになった。

「お金かけて帰らなきゃよかった。」と言うこともしばしば。

 

大好きだったパパが苦手になった。